信長の「波把波羅」▲
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の書状に書かれた「波把波羅」の文字に研究者の注目が集まっている。横に「ぱわはら」と読みが振られているだけでなく、社会問題となっているパワーハラスメント(パワハラ)と同じ意味合いで用いられていることから、光秀がこの言葉を知った経緯について今後論議を呼びそうだ。
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の書状に書かれた「波把波羅」の文字に研究者の注目が集まっている。横に「ぱわはら」と読みが振られているだけでなく、社会問題となっているパワーハラスメント(パワハラ)と同じ意味合いで用いられていることから、光秀がこの言葉を知った経緯について今後論議を呼びそうだ。
書状は天正10年(1582年)5月に明智光秀が大和国の筒井順慶に宛てたもので、滋賀県安土市の古民家で昨年見つかった。これまで見つかった光秀の書状の中で最も長く、主君・信長に対する不満をおよそ8万字(原稿用紙200枚分に相当)にわたって書き綴っている。
「波把波羅」の文字が確認できたのは本文中51カ所。「波把波羅とはすなはち威権に因(よ)りてただ有無を言はせぬ鬼畜の所業なり」と説明しており、信長から受けた仕打ちについて語る際には必ず用いられている。また、「波羅」は修行の意を表す仏教用語「波羅蜜」からの借用とみられ、信長からの難詰を一種の修行と受け止め、耐え忍んでいた様子もうかがえる。
今回見つかった「波把波羅」の用法は、社会的な地位を利用して嫌がらせをする現代のものと完全に一致していることから、どのようにして光秀がこの言葉を知るに至った経緯について、研究者から様々な意見が出ている。キリスト教宣教師(バテレン)を介して伝わったという説が最も有力だが、何らかの要因で現代用語が時間をさかのぼって当時の人々に影響を及ぼした可能性を指摘する専門家もいる。
明智光秀に詳しい郷土史家の井出圭亮さんは「光秀は信長から屋敷の欄干に頭を叩きつけられたり、『金柑頭』と容貌をからかわれたりするなど、度重なる侮辱を浴びせられてきたことが知られているが、しつこいほど長文の書状からも、どれほど強い不満を募らせていたかがうかがい知れる。信長にもう少し家臣を思いやる心があれば、本能寺の変というバッドエンドを迎えずに済んだのではないか」と話す。
※これは嘘ニュースです
『何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?』とは
天正10年6月、家臣・明智光秀の謀反により、天下統一の夢半ばにして本能寺に倒れた織田信長。無念と悔恨を残したまま死んだ信長ですが、突然目の前に現れた謎の熊が彼に過去をやり直すチャンスを与えます。
気づくと信長は天正3年の岐阜城に戻っていました。彼の目の前には軍議を広げる家臣たちの姿が。そしてまた、そこには後に彼を裏切ることになる光秀の姿も。
人生をやり直すチャンスを手に入れた信長は、謀反の芽を摘むべくその場で光秀を斬殺。これで本能寺の変から逃れられたかと思いきや、彼を待っていたのはまたしても燃え盛る本能寺。光秀を消しても、やはり別の家臣からの謀反に遭って本能寺に倒れてしまうのです。
再度やり直しの機会を得た信長は、今度は謀反を起こしそうな家臣をホトトギスのように片っ端から殺してしまいますが、やっぱり最後は本能寺。それならば、と光秀を優遇してもやっぱり最後は本能寺。
ひとつでも選択肢を誤ればすぐさま燃え盛る本能寺が待ち受けるこの輪廻を抜け出し、本能寺の変を回避する「正解」を果たして信長は見つけ出すことができるのか。そしてあらゆる可能性を試す中で信長は唯一、本能寺エンドから抜け出せる「掟」を知ることになります。
本能寺の輪廻から抜け出そうと奮闘する信長を描く歴史コメディ『なんじゃが』は本日5日、全国書店または電子書籍にて発売。また「ヤンマガWeb」では試し読みもできますので、ぜひご覧ください。
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