ヤンマガでスタートした話題作『ゾミア』の背景を探る!
13世紀アジアが舞台の歴史スペクタクル『ゾミア』。作中では描き切れなかった当時の社会情勢や歴史の秘話を、「辺境余話」として紹介する不定期コラム。
賠償金で決着をつけるというマイスールの提案は驚きをもって迎えられた。『ゾミア』作中の13世紀当時のアジアでは、欧州と中国を結ぶ“シルクロード”での交易は長らく物々交換が主であり、貨幣は補助的な役割を果たすのみであった。貨幣経済の浸透がまだまだ薄かったこの時代に、遊牧民であるモンゴル相手に交易の価値を説き、賠償金(貨幣)のみによる講和を提案するというマイスールの発想は、それだけでかなりぶっ飛んだものだと言えるだろう。
とはいえ、敗戦国が戦勝国に賠償金を支払う事例は古来よりあった。たとえば、名将ハンニバルの活躍で知られる第二次ポエニ戦争(紀元前219年~ 紀元前201年)では、勝利したローマはカルタゴに、賠償金として銀260tを50年賦(!)で支払うよう命じた。しかし、この場合の賠償金は、あくまで講和条件の一つに過ぎなかった。なぜなら、古来より戦争とは領土(不動産)獲得を目的とするものであり、主な賠償条件は金ではなく、「本土以外の植民地の放棄」だったからである。(その他の条件は「武装解除」「戦争捕虜の引き渡し」など)
これが大きく変化するのは、ヨーロッパで騎士道典範が定まり、戦争がゲーム性を帯びていってからである。捕虜と身代金の交換が一般化し、戦場では殺人は極力回避され、より多くの捕虜を得る事が至上命題となった。当時の考え方では身代金は捕虜の年収相当とするのが一般的で、騎士は多額の身代金を得る事を目的に戦争へと参戦した。1356年に行われた「ポアティエの戦い」では、捕虜となったフランス王ジャン2世と身代金・金貨300万エキュ(金13.5t)の引き換えをもって戦争は終結。(この身代金を用意するのにフランスは数年を要し、国家財政は破綻寸前にまで陥ったという。)このように、14世紀頃から徐々に、領土ではなく賠償金(身代金)を目的とした戦争が行われるようになるが、それは作中から約1世紀が経過したヨーロッパでの出来事であった。
さらに、相手は遊牧民のモンゴルである。旧来、遊牧民は動産(馬や羊などの家畜)のみに価値を求め、不動産(土地)は重視されなかった。これは牧草を食べ尽くしたら他の土地へと移り住む遊牧民の生活において、土地の所有という概念が生まれなかったためである。貨幣経済成立以前の13世紀初頭のアジアにおいて、戦争がまだ領土の奪い合いでしかなかった頃、不動産を重視しないモンゴル相手に賠償金のみでの解決を提案する。成立はしなかったが、マイスールの発想は、先進的で理にかなっていたと言える。
『ゾミア』第6話を読む