「講談社コミックプラス」に掲載されたヤンマガ作品のレビューをご紹介!!
『ストロングスドウくん』
筋骨隆々、学校内でもサングラス、いかついヒゲ。嫌いな場所は「教師たちの無駄な会議」。そんな無頼派教師・須藤(スドウ)が悩める高校生と真っ向勝負!! "SNS上でのいじめ" "部活の功罪" "不登校" 現代の学校を覆う問題はどこにある? 「学校は誰のため、なんのためにあるか」「学校は必要なのか?」 Z世代と型破り教員の学園ドラマ!!
Z世代に求められる教師像
「Z世代」と呼ばれている人たちに、心から同情する「新人類」世代の私。XだのZだの(影は薄いがYもある)、どこかの広告代理店がマーケティング資料のためにでっち上げた言葉でひっくるめられて、さぞウザったいことだろう。私も「超能力も使えないのに、なにが新人類だよ」と機動戦士ガンダムを観ながら思っていたもんなぁ。そんな出来の悪い「Z世代」というキーワードだけど、 「Z」という文字が醸し出す “どん詰まり感” については、当事者のみなさんも「まぁ、そうかな」って思っているのじゃないだろうか? 「いつの時代も、あなたぐらいの年頃ならそう感じるものだよ」とか、「悪いねぇ、私たちの世代が立派な世の中を用意してあげられなくて」なんて言うと、またそれがウザったいんでしょ? それも知ってる。
本作『ストロングスドウくん』は、高校教師が主人公の学園漫画だ。といっても東大入学を目指すわけでもなければ、学校に嵐を巻き起こすわけでもない。中堅より下位に位置する高校に起こるネットいじめや、無気力な教師といった、“どこにでもある”事案に対処する教師を描いている。古くはテレビドラマ『3年B組金八先生』や、漫画『鈴木先生』『ここは今から倫理です。』につながる王道の教師ものに位置付けられる作品だ。そしてZ世代が抱える“どん詰まり感”を見事に描写することで、 繰り返し描かれてきた“どこにでもある” 問題を“今”のものとして語ることに成功している。たとえば、こんなシーン。
どん詰まってる~!
そんな生徒たちに対峙する、主人公の須藤先生はこうつぶやく。
一日中スマホを手にして、知識だけは大量に吸収している子どもたちに、多くの大人たちは「伝えること」を失っていたり、「伝えること」を諦めたりしていないだろうか?
一日中スマホを手にして、知識だけは大量に吸収している子どもたちに、多くの大人たちは「伝えること」を失っていたり、「伝えること」を諦めたりしていないだろうか?
須藤先生は、進路指導調査を書かせるにあたり生徒にこう語る。
夢
目標
そういうのさ
いらねえから
目標
そういうのさ
いらねえから
この一言で、一瞬のうちに生徒の視線をひきつけ、さらにこう続ける。
ぐうの音も出ないこの4ページのロジック。「だから東大へ行け!」と展開すれば桜木先生になるのだが、須藤先生はもっと現実的だ。「じゃあ、私たちはなんのために学校に来るのか?」と聞かれた須藤先生の答えは? それは是非漫画で読んでほしい。驚くほど凡庸で厳然たる真実を、須藤先生は説得力に満ちた言葉で語ってくれる。
ぐうの音も出ないこの4ページのロジック。「だから東大へ行け!」と展開すれば桜木先生になるのだが、須藤先生はもっと現実的だ。「じゃあ、私たちはなんのために学校に来るのか?」と聞かれた須藤先生の答えは? それは是非漫画で読んでほしい。驚くほど凡庸で厳然たる真実を、須藤先生は説得力に満ちた言葉で語ってくれる。
時代に求められるマッチョ
須藤先生は物理の教師で、マッチョな体を作り上げている。基本的にいつもプロテインを飲んでいて、生徒と向き合うときだけミルミルやコーヒーを飲む。ここで「なぜ物理の須藤先生がマッチョでなければいけないのか?」という疑問が浮かぶ。
生徒への威圧感?
絵的に教員と差別化するため?
いや、そこには“今”という時代に、マッチョな体を求める要因があり、須藤先生はその要因に忠実なのではないかと思う。
生徒への威圧感?
絵的に教員と差別化するため?
いや、そこには“今”という時代に、マッチョな体を求める要因があり、須藤先生はその要因に忠実なのではないかと思う。
自らの肉体改造を成し遂げたマジカルラブリーの野田クリスタルが、「なぜ芸人さんはマッチョを目指すのか?」という質問にこう答えている。
「やった分だけ成果が出るからですね。そこはお笑いにはないので、それがうれしくて仕方ないんでしょうね。お笑いの勉強や努力なんて、そもそもそれが勉強かどうかも怪しいですよね。筋トレはやるべきことがわかりやすいので、いいですよね」
勉強、仕事、お金、恋愛‥‥人生は意志でもって100%コントロールできない。その事実は、生徒も須藤先生も同じ。しかし肉体は意志でコントロールできる。文字どおり、筋トレは裏切らない。須藤先生は、学校の中でかりそめの平等を見ている生徒たちに、ままならぬ将来の現実を突きつけながら、それでも絶望するなと語らねばならない。そうした相反することを説得力をもって語らせるには、最低限、自分の意志を肉体に反映させられるストイックさを持つ人物でなければいけなかったのではないか。中途半端な妥協を許さないキャラクターとしてのマッチョというのは、とても斬新でアリだと思う。
「やった分だけ成果が出るからですね。そこはお笑いにはないので、それがうれしくて仕方ないんでしょうね。お笑いの勉強や努力なんて、そもそもそれが勉強かどうかも怪しいですよね。筋トレはやるべきことがわかりやすいので、いいですよね」
勉強、仕事、お金、恋愛‥‥人生は意志でもって100%コントロールできない。その事実は、生徒も須藤先生も同じ。しかし肉体は意志でコントロールできる。文字どおり、筋トレは裏切らない。須藤先生は、学校の中でかりそめの平等を見ている生徒たちに、ままならぬ将来の現実を突きつけながら、それでも絶望するなと語らねばならない。そうした相反することを説得力をもって語らせるには、最低限、自分の意志を肉体に反映させられるストイックさを持つ人物でなければいけなかったのではないか。中途半端な妥協を許さないキャラクターとしてのマッチョというのは、とても斬新でアリだと思う。
また、須藤先生はティアドロップのサングラスをかけている。サングラスをかけているシーンではなにかを隠し、外しているシーンではなにかを探り、伝え、そしてサングラス越しに目が見えるシーンでは須藤先生自身からなにかが漏れている。そうした目と視線の演出が、非常に繊細に描かれている。
たとえば、ネットで友だちを誹謗中傷する生徒に迫るこのシーンなどは、マウントの取り合いで、コマごとにコロコロと力関係が変わるところを、目で見事に表現している。
さらにすごいのが、不登校の生徒宅へ家庭訪問を先輩教師から押し付けられた須藤先生が、生徒と顔を合わせるシーンだ。
そこに漂う微妙な空気が、この視線一発で伝わってくる。ひと昔前の定番の展開ならば、子供部屋の扉を挟んで「出てこい!」「帰れ!」とお決まりの応酬だったはず。しかし、この不登校生徒は親に言われて出てきて、のこのこと担任でもない先生に会っちゃうのだ。そしてこの目と、交差しない視線‥‥。こんな気まずい家庭訪問あるだろうか? 反抗のひとつもしてくれれば分かりやすいのに、この得体のしれなさは飲み込めない。しかし、そこになにかしら圧倒的な“今”がある。さらにこの後、この生徒の内面へ須藤先生がスルッと入っていく展開も素晴らしい。
教師を主人公にした物語において、時代は変わっても生徒が抱える悩みはそんなに変わらないし、それに対する教師の行動も大筋で大差ない。つまるところ大いなるお約束の繰り返しだ。しかし、その時代その時代で物語に流れる空気とディテールは異なる。それをいかに丁寧に積み重ね、“今”を立ち上らせるか? その点において『ストロングスドウくん』は、圧倒的な力量で“今”を描き切っているスリリングな作品だ。
レビュアー/嶋津善之
関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。
関西出身、映画・漫画・小説から投資・不動産・テック系まで、なんでも対応するライター兼、編集者。座右の銘は「終わらない仕事はない」。